第3回日本医療用光カード研究会論文集、13-16、1992年 [総会長講演]
病院情報システムのトレンドと地域医療への展開
里村洋一 千葉大学医学部附属病院医療情報部
1.はじめに
病院情報システムが我が国で稼働しはじめてから、15年以上経過した。この間に技術面においても、またその病院や社会に及ぼす影響力の面でもかなり大きな変化がみられた。しかしながら、医療人が新しい情報システムを使いこなし、これを実際の医療に役立てる時代は、まだその入り口が開かれたばかりである。本当の変化は今始まろうとしており、コンピュータシステムが真に医療に貢献できるか否かは、今後の5年間に多くの可能性ある選択肢のうちの、いくつを本当に実用に供せるかにかかっているのではないかと思われる。画像をふくむ患者の情報を端末機で気軽に参照し、各種の医学情報や知識を検索し、必要な要求を発信し、他の部門や医療機関からの依頼を受け取る。そのような日常診療のためのコンピュータの機能がどんな診療機関においても利用できる時代へと向かって、今、具体的なステップが踏み出されようとしている。しかし、それは単にコンピュータの技術進歩という受動的な要素にのみ依存するものではなく、社会の変化、医療環境の変化、医療需要の変化によってもたらされたものであり、情報化は、医療を受ける人々が求めている快適で信頼性の高いケアーを実現するための数少ない手段の一つだからである。
2.情報技術面のトレンド
2-1 医事会計からオーダーエントリーへ
日本の医療情報システムは、医事会計処理から始まったといって過言ではない。我が国の健康保険の制度が、医療費請求のために多大な事務処理業務を要していることから、医事会計システムが普及したことは、至極当然のことであった。また、IBM社がビジネス用コンピュータの普及に成功し、ハード、ソフトの両面で環境が整っていたことも、おおきな要素であったであろう。それは、米国においても、会計のシステムが先行して病院情報システムのベースを作ったことからも、うかがえる。我が国では、今日でも、数だけから計算すると、医療機関のコンピュータシステムの80パーセントまでが、なお、医事コンと呼ばれる専用のパソコンで占められている。また、大規模な病院情報システムもその多くが大型汎用コンピュータによる医事会計処理を中心に据えたシステム構成を維持している。
最近の約5年間は、このような、医事会計主導型のシステムから、ようやく医師や看護婦が日常診療に利用できる情報システムへの進化が明かになってきた。かつて、病院情報システムの黎明期に、処方や検査のオーダーエントリーをはやばやと実現したいくつかの先進的病院があったが、特殊な環境での実験的なものと考えられ、これらを追随する動きは弱いものであった。しかし、この5年間はかなり様相を異にしている。採算を重視して、従来、実験的投資には関心のなかったような病院でも、オーダーエントリーシステムや検査情報システム、薬剤情報システムなどの導入が計画されるようになってきた。
オーダーエントリーシステムは病院管理業務の電子化の究極の姿である。医師や看護婦などの医療従事者が、発生源において必要な情報を入力し担当部門に伝連する。これは、単に情報の伝連を迅速にするばかりでなく、入力された情報は病院管理や診療実務において、さらには研究や教育の面で様々に利用できる。この意味でオーダーエントリーはこれからの病院情報システムの基盤であると言える。2-2 病歴情報システムから電子カルテへ
我が国では、病歴情報システムは管理事務的情報システムの対局にあると考えられてきた。これは、医会計システムが扱うデータと現場の医療の情報との間に大きな乖離があったからである。医療費の請求は本来ならば、カルテの情報をそのまま生かした形でなされるべきものであるが、不幸にしてその乖離が定着している。このことが、どんなに情報システムの効率的運用を妨げているか計り知れないが、健康保険制度の基本構造が変わらないかぎり、解消されないであろう。したがって、カルテに記載されている診療情報の電子化は、管理システムとは別の意義で行なわれざるを得ない。今日、電子カルテと銘打ったシステムの開発は、ほとんどが、大学等で学術的な目標にあわせて企画されているのは、この事情によるものである。
病歴情報を電子化する企画は、コンピュータの医学応用が始まった約30年前から、根強く続けられてきた。医療用のコンピュータ言語として有名なMUMPSはカルテに記載される文章を処理する目的で1965年頃に開発されている。その延長線上に、診療支援のための病歴情報システムCOSTERが開発されたのは1980年代に入ってからであるが、米国の一部の病院で実務に使われている。我が国でも、入院病歴の要約や検査データなどは、はやくから電子化の対象となって、多くの病院でそのためのシステムが働いている。しかし、これは医師が直接、実時間で書いているカルテ(診療録)とは異なったものである。診療に際して記録される患者の訴えや問診の記録、診察の所見、時々刻々の病状の変化や処置、手術の内容などが電子的な記録となるようなシステムが、つぎのステップの情報システムとして意識されるようになって久しい。これまでは、医療情報の複雑な構成と症例による個別性が高さから、容易には実現するまいと考えられてきたが、前述のようにオーダーエントリーのシステムがその基盤をなす可能性がはっきりするにつれて、その期待感が高まりつつある。2-3 文字情報から画像情報へ
情報機器の進歩は、処理の対象を数字や文字に限る事なく、画像や音声にまで及んできた。
医療の世界では、文字以上に画像の情報が決定力を持っている。PACS技術の確立は、画像と文字を一体に扱えるシステムの期待をかき立てている。すでにパソコンの世界では、画像や音声なしには情報を語れない時代となった。技術的には、病院情報システムで画像をも提供できる時代がすぐそこまで来ていると言ってよいが、医療の経済がこれを許すであろうか。統制経済の色彩の濃い保険制度の下では、事態を悲観的に考えざるをえないが、ちょっとしたきっかけで劇的に変わるのもこの経済の特徴でもある。期待が持てないわけではない。2-4 大規模データベースから患者単位管理へ
これまでのコンピュータシステムは、個別に開発された小規模なシステムをできるかぎり統合して、大規模なデータベースを構築し、整合性のあるデータを管理して、統計解析などを容易に行なえるよう集中管理を目指して拡張してきた。病院情報システムの場合も例外ではない。しかし、病院で集積された患者のデータは、あくまでもその病院での診療情報にすぎない。もし、一人の患者のデータをその生涯にわたって記録し、あらゆる診療や健康管理の機会に利用しようとするならば、この延長線上で考えるかぎり、国際的なデータ交換は無視するとしても、少なくとも我が国全体で一つのデータベースを作成し、全ての診療機関からの情報を集めなければならない。どのようにシステムを拡大しても、一億人を越える人々のデータを完全に一括管理するのは非現実的であろう。患者のデータは本質的には患者に帰属し、患者のために使われるべきであることを考えると、患者自身がその診療記録を管理すべきであるという基本概念は納得のいくものである。もちろん、社会がデータの安全性に関して、適切な支援をするシステムを構築する必要はあるが、基本を個人におくことに誰も異存はあるまい。
こう考えると、患者がカードの様なメディアで自分のデータを自分で管理し、必要に応じて診療機関に堤示し、記録の参照と迫加を受けるというシステムが理想と言える。
今後の医療情報システムは、病院等の診療機関では、データベースの統合と効率的な通信へと進み、一方で、患者単位のデータ管理が社会全体のシステムとして整備されていくと思われる。すでに、地域医療の支援システムの一部として、カードが使われ始めており、検診データなどの記録に利用されている。3. 医療に於ける情報システムの意義
これまでのところ、医療における情報システムはビジネスの世界と同様に、医療業務の効率的な遂行を唯一の目的としてきたようである。もちろん、限りある医療資源を有効に生かす工夫は重要であり、今後も、診療の合理化の要素としてシステム化は続けられるであろう。しかし、医療の目指すところは、かけがえのない一人一人の命と健康であって、マスで考えることは便宜的手段にすぎない。医療情報システムもまた、個人を基本として設計されるべきであろう。そこで、医療情報システムの意義をこの観点から眺めてみると、以下のようにまとめることが出来よう。
1 病歴情報(患者の病状や医療の経過と結果)を正確に記録し再生する。
2 病歴情報を正確に他人に伝達する
3.医療の成果を適正に評価する1と2については、取り立てて論ずることは必要ないが、3については多少の議論をしておかねばなるまい。医療の世界は、古く呪術の時代から、近代の科学技術の時代に至ってもなお、患者にとってはベールの奥に隠された世界であり、一つ一つの医療行為の効果については、患者の批判を許さない体質を宿してきた。それだけに医師の倫理感が強く求められ、聖職者に準じた扱いがなされてきたのである。しかし、一方で常に腐敗の可能性を内蔵し、ともすれば人々に不信の種を蒔いてきてもいる。なぜ批判を許さないかと問われれば、人間が精神的にも肉体的にも個性の強い存在であって、小数のデータでは一般的な原則を立てがたい対象であるためであると答えられよう。
しかし一方で、充分に信頼できる大量のデータを集めることを怠ってきたと言えないだろうか。もちろん、客観的なデータを集めて一般原則を打ち立てる努力は、研究者達によって、相応になされてはきたが、医学の主流であったとは言えまい。情報処理技術の進歩は、そのデータ収集を可能にしはじめた。個々の医療行為を客観的に評価できる基盤が与えられようとしている。また、様々な医療技術がその効能と安全性について、これまでより、迅速で正確に判定できる手段が与えられようとしている。これは医師をはじめとする医療関係者にとっては、かえって、つらい試練であるかもしれない。
一方、臨床医学は自然科学の条件を充分備えていない学問領域であるといわれてきた。それは、厳密な比較対象群(コントロール)を得にくいこと、再現性のあるデータが得がたいこと等によるが、標準化された大量のデータが与えられれば、その条件のかなりの部分を満たすことになろう。臨床医学が本当に科学として成り立つ基盤が情報化であると言ってもよい。
情報処理技術は、あらゆる自然科学の領域で一般的となっている分析的、還元的手法をサポートするばかりではない。記録された大量の事象から、それを支配するルールを発見し、新たな規範を構築するという統合論的な役割を担っており、情報学の価値はむしろこの面で強調されるべきである。
臨床医学や医療においては、分析的思考より、むしろ、このような統合的思考が求められており、コンピュータはそのための強力な武器である。現在のところ、まだ成果は目覚ましいとは言えないが、いづれ、その威力を見せることであろう。4.克服すべき課題
これまで述べてきたとうり、医療における情報システムの立場は、これまでの医療の体系をより効率的に動かす支援の役割から、既成の規範を越えて新しい価値観を産み出す役割へと進もうとしている。それは、即ち、既成の体系との軋轢をも意味している。いくつかの課題をまとめて考えてみる。
4-1 データの標準化
大規模なデータの集積は、中身のデータが共通の規則と形式に従って書かれていなければ、個々の症例を参照する場合においてさえも、利用価値の少ないものである。まして、これらの医療データを相互に比較検討したり、統計を取ったりするためには、標準化は絶対の条件である。しかし、病歴書の記載をみればわかるとうり、医療記録の作成方法は千差万別で、他人への良好な伝連を意図していない。また、これをこのままコンピュータに記録しても、ほとんど役に立たない。このことは、いみじくも医師達が意識的な記述への関心をないがしろにしてきた証拠だと言える。かつて、L. L. Weedがこの状況を嘆いて、POMR(Problem Oritented Medical Record)を提唱したこともこの事実に危機感を感じたからであった。記録に関する問題がコンピュータによって解決される時代となった今日では、多様な選択肢があたえられているが、記録される用語、分類とコード、単位や文字形式、記録フォーマット、通信フォーマットなどを標準化して共通の規範の上で処理できる環境が前提となる。
ICD(International Classification of Disease)は古くからの標準化活動の成果であるが、最近、WHOは第10回修正版を出版した。既に日本を含めて大多数の国々で一般的となったICD-9は、現在最も成功した医療情報の標準化と言える。1980年代末から、米国では、検査データの互換性を目指してASTM(American Society for Testing and Materials)やHL7などの標準化の動きが活発となり、最近では医療画像データの標準化へとむかっている。医療用語の面でもUMLS(Unified Medical Language System)やSNOMED III(Systematized Nomenclature of Medicine version III)が開発され、その一部が公開された。ヨーロッパではEC統合をめざして、CEN(Comite Europeen Normalisation)があらゆる基準の統一へと動き、そのなかで、Technical Committee 251は医療情報の標準化を担当し、医療のあらゆる局面(用語、機器、薬品、検査、画像、安全など)での検討に入っている。我が国でも、はやくから日本臨床病理学会が検査データに関する表現の統一とコードテーブルを作成し公表している。また、1990年にはコンピュータでの利用を目的とした医学用語辞書MEID(Medical Electronic Intelligent Dictionary)が発行された。最近では、画像データの記録と通信のための標準化が活発で、IS&C(Image Save & Carry)がその仕様を公表し始めた。これは、X線写真、CTや超音波画像、内視鏡写真などの画像データを光磁気ディスクに記録する際のフォーマットとこれに伴う文字情報の標準形式を決めたもので、今後、光カード等にも応用できるものである。本研究会における光カードの標準フォーマット作成も標準化のための重要な活動の一つである。これらの活動はようやく世間の注目を集めるようになり、国際的な調整も始まろうとしているが、普及に至るまでには、なおかなりの年月を要するであろう。4-2 法的制約
ほとんどの情報が紙に書かれて伝達され、保存された時代は既に1千年以上の歴史を持ち、紙による文化は今なお繁栄を極めている。情報メディアとして新参者であるコンピュータは、これまで紙との共存をはかって生きてきた。このため、コンピュータの導入によって紙の使用量が飛躍的に増加し、資源保護の観点から社会間題となるに至っている。しかしコンピュータは、本来紙を必須としているわけではなく、むしろそれに取って変わるべきものなのである。既存の文化に取って変わろうとすれば、強力な反発を受けるのは当然である。法律は本来保守的で既存の価値観を保護するものであるから、コンピュータ文化をそのまま受け入れがたいのも当然で、当分、摩擦は避けがたい。
病歴書は紙に書かれたものでなければ、公式のものとは認知されない。処方戔は紙に記され印鑑が押されるか、ペンで署名されていなければならない。電子カルテや処方戔伝送、X線画像のフィルムレス保管などは、法律を厳格に適用すると全て違法である。
医療情報学会をはじめいくつかの団体が、すでに厚生省に対して、電子化された医療情報の法的有効性を認めるよう要望を行なっている。行政組織は、法律を執行すると同時に、法律を曲げることなく、しかも現状に即した運用を工夫する機関でもあると思うが、我が国の厚生省はいかに対応するであろうか。4-3 プライバシー保護とデータの安全性
新しい効用のあるところには、新しい危険も生じる。情報処理機器による情報の取り扱いでは、情報が大量にしかも痕跡をとどめず盗用される危険をはらむ。また、情報の喪失や改竄などの危険性も無視できない。
これらの危険は、紙の上の記録についても皆無であったわけではないが、永い文化の歴史が、様々な対策法を産み出して、危険性を最小限にとどめるよう工夫されてきた。コンピュータはその歴史を持っていない。
情報を盗用されない機構、特に、個人の機密に属する病歴情報や健康管理記録を当人の許可なく使用されないよう厳重に管理する仕組みは、医療情報管理の上で最も重視されなければならない。データアクセス権の管理(使用者の識別、アクセス範囲の設定など)のほか、当人の意志確認のルールと手法を確立しなければならない。近年、プライバシー保護の概念は、単にデータを盗用されることを防止するばかりでなく、記録されているデータの内容を知る権利、データの変更を要求する権利に及んでいる。医療においては、癌の告知などとからんで、複雑な要因をかかえており、この概念をそのまま適応するには困難がある。我が国のプライバシー保護法は、いまのところ、このデータの内容を知る椎利については、医療の記録を対象外としているが、国民の意識の変化によって今後さらに個人の意志を尊重する方向に進むかもしれない。
大規模な情報の消失に対する安全策については、様々な手法が発連してきている。データを2重3重に記録したり、書き換え不能な記録メディアを利用したりできる。問題は、むしろ、意図的に不当な修正や部分的消去が加えられる危険である。紙の記録の場合には、痕跡を残さずに修正するのは困難であるが、コンピュータに痕跡は残りにくい。重要な患者情報については修正後も修正前の記録を保持し、修正の日時と修正者が自動的に記録されるシステムとしなければならない。5.地域医療と情報システム
情報システムの効用は、大量のデータの蓄積や、そのデータを多目的に利用できる事の他、データを迅速確実に伝える所にある。これまで述べてきたように、病院情報システムは病院内の情報の電子化とその利用に目標をおいてきた。しかし、どのように病院内を情報整備しても、個々の患者の医療を病院内だけで完結させるわけにはいかない。他の医療機関や組織された地域医療システムとの連携なしには不完全なのである。
一方、地域医療情報システムとは、医療施設や地域の行政機関、家庭、ボランティア組織など、コミュニティー全体がお互いに連絡をとりながら、住民に最適な健康サービスを提供しようとするものである。この組織編成がエンジンであるとすれば、これを動かす燃料は相互のデータ交換であるが、現実にはデータを発生源である医療機関に大部分依存せざるをえない。
このように、地域医療情報システムと病院情報システムとは、相互に補完的である。病院での診療記録と学校や職場、地域の検診記録、在宅患者の家庭からの情報、衛生行政上の諸情報などが有機的に結び合ってはじめて行き届いた健康サービスが実現する。6.光カードの役割
演算、記憶、通信、とあるコンピュータの主要機能の内、今日最も発達の遅れているのが通信の機能である。光通信の普及が期待されているが、それとても膨大な基盤投資を必要とする。光通信網は高速(即時)の通信を実現するが、通信のなかにも、それほど緊急性がなく、安価で大量であるほうがよいものもある。カードシステムはそのような目的に合った通信手段の一つである。カードシステムは通信手段であると同時にデータ蓄積手段でもあるが、特に、光カードはその記憶容量が大きいこと、メディアが安価なことから診療と検診記録に好適である。個人と医療機関、個人と地域医療システム、医療機関と医療機関を結ぶ通信は、患者や受験者が持参する光カードによって、大部分を賄いうる。また、個人が自分のデータを自分自身が管理するのであるから、プライバシー保護の点でも優れた手法であるといえる。現在は文字情報に限られた容量であるが、将来はX線写真をはじめとする、医療画像の記録も可能になろう。医療に於ける一般的通信手法として定着するのももうすこしではなかろうか。