第9回日本光カード医学会論文集、11-12、1998年 [総会長講演]
ハイパーネットワーク時代の人類
西堀眞弘 東京医科歯科大学医学部附属病院検査部
ネットワーク社会の到来と言われて久しい。だがその実は大部分の情報が中央から末端に一方的に流れているに過ぎない時期が続いた。しかし最近になって、ようやくインターネットが文字通り多対多を双方向で結び、網の目のような情報の流れを生み出した。
インターネットが一部マニアのものであった時代は瞬く間に去り、今や爆発的な拡大は誰にも止められない。新聞社は先を争ってホームページに最新ニュースを流し、銀行やクレジット会社は電子決済の主導権を取るため熾烈な争いを演じている。しかしその先にどのような社会が待っているのか、もし後から今の時代を振り返ったとしたら、あのとき既に正確なイメージを抱いていたと胸を張れる者は、恐らくひとりもいないであろう。しかし、少なくとも単にこれまでの延長線上でものを考えることができないことは明らかである。
コンピュータの登場は人類社会に大きな変革をもたらしたと言われる。事務会計処理は電子化され、工業製品の設計や生産もコンピュータ無しでは不可能になった。エアコンや電子ジャーにまでマイクロコンピュータが組み込まれ、快適な生活を支えている。テレビは世界中の人々が互いの生の姿を見せ合うことを可能にし、ベルリンの壁を崩した。ジェット旅客機は世界中の人々が気軽に訪ね会えるようにし、互いの社会に直に触れることを可能にした。それでも、個人は国家に帰属することによって守られ、国家は土地に帰属することにより実在するという、有史以来人類が執着してきた虚構を疑う人は多数にはならない。しかし、ネットワーク化が極限まで進んだとき、このような幻想を信じ続ける理由が果たして残っているだろうか。
現在のインターネットの利用状況を基に判断しては誤った結論を導く。現状はまだ本来のネットワーク社会のほんの入り口に差し掛かったところである。普及したと言っても、実際に触れることができるのは人類全体のごく一部である。また触れることができる人でも、実際には特定の場所に居るときだけに限られ、その時間も日常生活のごく一部を占めているに過ぎない。
現在実現されているネットワークのインフラストラクチャは、中継基地どうしを網の目のように繋ぎ、そこへ行けばいつでも他の中継基地と情報交換ができるように作られてはいるが、それ以上の物ではない。インターネットに繋がった端末装置のある場所へ行かなければ、あるいは携帯型の端末装置を持っていてもインターネットに接続できる場所に持って行って繋がなければ、ネットワークに参加することはできない。この状態では、これまでより少し便利になったという位の、あくまで程度の変化に留まり、質的変化はもたらさない。しかし人間が社会的動物である以上、いつも誰かと繋がっていたいという欲求は、ネットワーク化の進展がこのような中途半端な状態で留まることを許さない。
電話線とテレビがあればいつでもインターネットに接続できる装置は既に販売されている。何十個もの人工衛星を飛ばし、地球上のどこに居てもいつでも繋がるようにした携帯電話のサービスは既に稼動が始まった。ポケットに入る液晶端末は既にヒット商品として普及している。それぞれの要素技術が進歩、融合し、地球上のどこに居ても好きなときにインターネットに接続できる、超小形の安価な携帯端末が実用化されるのは、時間の問題である。
いつでもどこでも地球上すべての人々とネットワークを介して互いに情報交換できるということは、人類にとって、火の獲得、印刷技術の発明、産業革命、コンピュータの発明に並ぶ革命的な出来事である。そこでこの状態に至ったネットワークを、その究極の発展型として「ハイパーネットワーク」と呼ぶことにする(図1)。
図1:現在のインターネット(上)とハイパーネットワーク(下)
ひとりひとりがインターネットにつながった小さな端末を携帯し、居ながらにして世界中の新聞・テレビ・映画を見、世界中の人々とプライベートあるいは仕事上の手紙や電話のやりとりをし、世界中の店でショッピングを楽しみ、世界中から選んだ資産に投資する。世界中の企業が競い、顧客の支持を得たものだけが生き残り、常に最高水準の商品が最低の価格で供給される。 医療に関して言えば、定期的に、あるいは身体の変調を感じたときに、いつでもどこに居ても、その端末を通じて知りたい健康情報を得たり、世界中から選んだ好みの医療機関で健康管理を受けることができる。そして、いざというときには直ちに適切な専門医への受診が手配され、まったく症状がない段階から最高水準の発症予防の技術が施される。不幸にも予防に失敗した患者のみが投薬あるいは手術の対象となり、治療後はその端末を使って症状緩和に必要なケアを受けながら、できるだけ健常人と同じ社会生活を送る。トータルとしての医療費は激減し、浮いた医療費がさらなる医療技術の向上をもたらす。
間接民主主義はもはや過去の遺物となる。あらゆる政治案件についての政策立案を世界中のコンサルタント会社が競い、直接投票によって選択されたのものが、入札に勝ち残った実施会社に発注される。忙しい有権者は好みの投票代理業者と契約して各々にとって最善の政策を選ばせ、最小限の時間で最善の選択に基づいて権利を行使する。身近で土地に密着した問題は地域単位で、民族の問題は民族単位で、特定の関心領域の問題は関係者単位で、全体にかかわることは人類全員で決定する。
良いことばかりではない。既得権やコネだけにすがって権益を享受してきた政治家や企業、そしてその者たちに寄生虫のように貼り付いてぬくぬくと暮らしてきた人々は、容赦なく有権者や顧客から紙切れのようにうち捨てられ、路頭に迷い野垂れ死んでも誰も助けてはくれない。またハイパーネットワーク社会では、ネットワークから供給される情報のプライオリティが最も高くなり、生きるために必須の情報からゴミ同然の情報まで、すべてがそのひとつのメディアから絶え間なく供給されるようになる。しかも旧来のメディアはその補完に過ぎなくなり、それらに頼っていたのでは情報の完結性が保証されない。そこで、ネットワーク上にある無限の情報源から必要なものを間断なく選別していく能力、そして害を及ぼす情報から自分や家族を守り抜いていく能力を身に着けなければ、個人の側も生き残ることができない。人間が生物である以上、適者生存に基づく自然選択が起こることは避けられない。
さて、人類にとっての新たな挑戦となるハイパーネットワーク社会は、長い苦難の歴史を経てようやく辿り着いた、貧困や争いのない、幸福と繁栄に満ちた理想郷となるのであろうか。それともやはりヒトは獣の業から逃れられず、悪意と暴力に満ちた弱肉強食の野蛮な無法社会の中で喘ぐことになるのであろうか。
革命的なネットワークもそれ自体はひとつの道具に過ぎない。道具そのものが人類の将来を決定付けることは決してない。道具には必ず利便性と危険性が表裏一体となっている。その道具を生かすも殺すも、そしてその道具を殺戮に使うのも新たな価値の創造に使うのも、使う人間次第である。
このままいつまで待っていても誰も正しい使い方を教えてくれはしない。まして誰かに正しい使い方を決めてもらい、その遵守を強制することで秩序を保とうとするのは、悪魔に魂を売り渡すに等しい。危ないからその道具をそのものを取り上げてしまおうなどという考えは、正に本末転倒である。やはり我々ひとりひとりが、ネットワーク化の利点を最大限に引き出し、併せてリスクを極小化する工夫を地道に積み重ねていくことしか、人類を楽土に導く術はない。
21世紀を目前に我々が今突入しようとしているハイパーネットワーク社会とは、人類が未だかつて経験したことのない、厳しく残酷で、かつ無限の可能性と希望に満ちた社会なのである。